2016年1月24日日曜日

28年1月 早朝坐禅会「指月の会」案内

今朝の祥雲寺参道。春を待つ雪中梅



心意識(しんいしき)の運転を停(や)め、念想観(ねんそうかん)の測量(しきりょう)を止(や)めて作仏を図ること莫れ
                『普 勧 坐 禅 儀』永平道元



 二年ほど前に、雀宮善応院で行っている坐禅会にテレビの取材を受けたことがあります。
宇都宮ケーブルテレビという所の放送で、新年を迎えるにあたりリポーターの心を清くして臨むため坐禅をする、といった筋立てだったと思います。
テレビに映るのはもちろん初めてだったので、マイクを向けられて話すのは大変に緊張しました。

 色々と聞かれましたが、その中で「坐禅で得られるものって何ですか?」と聞かれたのが一番答えにくかったです。
というのもその少し前、僧侶の研修会で坐禅の功徳について話をした所、指導の方から「君はまるで坐禅のセールスマンだな」と大変に痛いご指摘を頂戴したばかりだからです。

 坐禅は無所得無所悟(目的を持つことさえも止め、ただ坐る)で行うものとされるから、坐禅の利点を言い連ねて説くことは認識を誤らせる元になります。
ですが私は、坐禅の功徳を確信しています。
10年ほど僧侶として修行を行い坐禅を組み、その中で坐禅は様々な気づきを与えてくれました。
これ程素晴らしいものなのだから、もっと多くの人に知ってほしい。
そういった思いから、どのようにして坐禅の素晴らしさを話せばよかったのか、取材の翌日もぼんやりと考えながら作業をしていました。
その中でふっと閃きました。
「ああ、坐禅っていうのは、為でないから素晴らしい、と答えれば良かったんだ」

 静かな落ち着いた所で静かに坐禅を行い内面も落ち着いてくると、普段見えなかった色々な気づきが訪れることがあります。
しかし、そういった訪れの有る無しにかかわらず、坐禅を行った後は清々しい心持になります。
それは、坐禅が何かの為に行うものではなく、何の為でもないことに集中をできる、人生の中で知らず背負っている荷を下ろすことの出来る「かろやかに生きる」行いであるからだと思います。

 冒頭の引用は、道元禅師が坐禅を世の人々に進めるために書かれた『普勧坐禅儀』の一節です。
「坐禅を行うときは普段当たり前に行っている情報の取捨選択、判断することを休止して、無になろう悟りを開こう仏となろう等、何かの為に行おうともしてはならない。」

 今ならばあの時の取材にこう答えます。
「坐禅は色々なプレゼントのある素晴らしい行です。
しかし、最も素晴らしい坐禅は、そういった何かしらの利益を求めて座るのではなく、
求めることを放棄してただ坐る、これが一番よい坐禅となります。」

                                        祥雲寺副住職  安藤淳之


一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

日時:1月25日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
     6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
     7時20分~8時    (二回目の坐禅)

場所:祥雲寺本堂一階

用意:身一つで大丈夫です。
    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。

また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています






2016年1月17日日曜日

平成28年1月観音朝詣りのお知らせ

元朝大祈祷。夜を徹して祈祷し、そのお札をお檀家に配っています


一生の年月これ何ぞ必(ひつ)ならんや
万事(ばんじ)回頭(かいとう)するに得失(とくしつ)に非ず
                        (道元禅師の言葉)



明けましておめでとうございます。

この道元禅師の言葉は、四行からなる漢詩の前半です。

「人生において、こうすれば必ず幸運が訪れるという方法などありはしない。過ぎさったことを振り返ってみれば、これがうまくいった、これは失敗だったと決めつけることは誤りである。」という意味です。

 我々が無常の世に生きている身であってみれば、よかれと思ってしたことも運悪く失敗の原因となってしまったり、失敗と思っていたことも長い目で見て人生の糧となっていたりすることは数多くあります。
要するに、人生を人間の知恵で解明することなど出来はしないのです。

 さて、実はこの後が道元禅師の大切な教えで、詩の後半には、それかからこそ私たちは仏様の教えに適った善きことをなしていかなければならないとお説きになっています。
人生すべて運次第と思って、成り行き任せで生きていくか、日常の一刻一刻を大切に生きていくかは、人それぞれです。
しかし一所懸命生きていけば、たとえどんな運命が待っていようとも、人生の充実は残ります。

得るところ少なくとも、その得るところを軽んずるなかれ
                (中村元 『真理の言葉・感興の言葉』より)

平成28年1月15日
                             祥雲寺住職 安藤明之

寒さが厳しくなっておりますので
十八日の観音様の朝詣りは
午前9時から行います。