2017年8月27日日曜日

29年8月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内

羅漢拝(お釈迦様の高弟に石堀会の人たちとお参り)


愛語よく回天の力あることを学すべき也」
                                永平道元 『正法眼蔵』



 先日東京にて日タイ修好記念特別展「タイ~仏の国の輝き~」という上野の国立博物館での展覧会を見てきました。

 展示物も素晴らしかったですが、タイの歴史的な仏教信仰の深さ、日本との結びつきの深さをあらわす掲示物も読んでいて大変面白かったです。
タイの国王は憲法によって仏教徒でなくてはならない、と規定されているそうです。
それは、6世紀に仏教が入って以降国を挙げて熱心に仏教を信仰し、今日国民の9割が仏教徒であるというタイの国民性の一つの現れなのかもしれません。

 数ある展示物の中に、タイ王室が建立したお寺を再現したものがありました。
日本のお寺でも煌びやかな、素晴らしい装飾をされた本堂は沢山ありますが、ここまで金色が多用された本堂というのはまず見られません。
その中央、金色に輝く仏さまの御顔は、微笑みの国タイらしく、やはり柔らかく微笑んでいられました。

 仏さまとは西洋的な神、全知全能とされる神秘的超越的存在ではありません。
無常の世の中に遭って、四苦八苦とも称される人生に必ず付いてくる様々な迷い悩み苦しみ、そこから離れる道を見出されたお釈迦様をブッダ(仏陀)、目覚めし人、仏さまとお呼びし、後世同じくその道を歩み成道された人々もまた同じく仏さまと尊称してきました。
仏像とは心の平穏を達成された姿、諸人の理想の有様でもあるのです。

 してみると、タイの仏像に微笑む姿形が多いというのは、タイの人たちの心根を表しているともいえるのでしょう。
冒頭の一句「愛語よく回天の力あることを学すべきなり」という言葉は道元禅師の一句です。
愛ある言葉、行いは時として天と称するような巨大なものすら覆す力をも持つものである。
仏の道、菩薩行を行うものとしてよくよく心するようにと残された言葉です。

 同じ道を歩む異邦の友として、タイの人たちを見習い笑顔を忘れず日々を務めたいものです。
行いが人を作るのならば、何時の日か心根くらいはあの大きな仏さまの微笑みに近づけることもあるのでしょう。
 
                                祥雲寺副住職 安藤淳之



一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:8月28日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可) 


     6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
     7時20分~8時    (二回目の坐禅)

場所:祥雲寺本堂一階

用意:身一つで大丈夫です。
    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。


注意:初めての方は最初に指導を行います。
    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。





また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。







2017年8月26日土曜日

平成29年8月 観音朝詣りのお知らせ

8月13日、お盆の迎え火祭壇前での読経



 NHKで「東京空襲が生んだ悲劇の傑作”噫(ああ)横川国民学校”」という番組を見ました。

 前衛書道家井上有一畢生の書です。
小学校教師であった彼は東京本所の横川国民学校に勤務していて、ちょうど宿直の晩に東京大空襲に遭いました。
避難してきた人たちが入った鉄筋造りの校舎に火が入り、千人余りの人たちが黒焦げになって焼け死んだ惨事に遭遇したのです。
奇跡的に生き長らえた彼は、その時目の当たりにした光景を、30年後に400字ほどの仮名口語まじりの漢文に記し、書として発表し、世に大きな衝撃を与えました。

 文章に綴られている惨劇のすさまじさに戦慄を覚えます。
それと同時に、背負い続けた思いを一文字一文字に託し、その総体として出来上がった作品に対して、もはや芸術とさえ言うこともできない、渾身をこめた魂の現れであると感じました。

 番組の出席者が、これは芸術ではない、供養だと言っていましたが、同感でした。
作品全体が経文に見えました。


 仏教会主催の宇都宮空襲犠牲者追悼法要は7月12日に営まれていますが、毎年この日には必ず東京から来て参列しているという方に今年お会いしました。
家が直撃を受け、隣の部屋にいた妹さんが亡くなられたということです。
生死は紙一重、空襲を受けるその時まで、一家には団欒があり、幸せが詰まっていた。
それが一瞬に打ち砕かれた。
人生には起こることであり、あきらめざるをえないことであるが、生きている限り忘れない。
その思いがあって、それが供養というものです。

 戦災法要の終了後、取材のNHK記者から、この法要は今後も続けていくつもりですがと聞かれました。
私は、もちろん続けますと答えました。
たとえ、直接の被災者が死に絶えても、その悲しみは永く受けとめていかなければならない。
それをなし得るのは仏様であり、仏様に仕え、経を読んで供養するのが私のつとめなのですから。

平成29年8月15日
                                           祥雲寺住職 安藤明之

十八日の朝詣りは午前6時から行います。